☆☆ 高  取 藩 ☆☆

本多家→天領→植村家本多家→天領→植村家入封

2万5千石→2万5百石→2万5千石
譜代 帝鑑間 城主

1640年(寛永17年)9千石の植村家政が1万6千石の
加増を受け、2万5千石で入封

植村氏は戦国時代に家康のもとで抜群の戦功を挙げたことから、
歴代藩主に家康の「家」を名乗ることを許されていた名門譜代であった。
また、高取城は江戸時代を通じてもめずらしい山城であったため、
交通に不便で寛永末期から 城下町に下屋敷、即ち藩主の居住並びに
政庁がつくられ、家臣も下に屋敷をたまわり下りてくるようになった。
 城には城番が置かれるだけであった。


大和:高取城:復元図
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土佐町(土佐街道)高取城へ

土佐町由来
 六世紀の始め頃、大和朝廷の都造りの労役で、故里土佐国を離れこの地に召し出されたものの、任務を終え帰郷するときには朝廷の援助なく帰郷がかなわず、この地に住み着いたところから土佐と名付けられたと思われる。
 故郷を離れて生きて行く生活を余儀なくされた人達のたった一っの自由な意志は 故里の名を今の場所につけることであった。
 古代、中世を経で近世に入り植村氏が高取城に入部するに伴い土佐はその城下町として政権、経済、産業の中心となり、町筋には商家が立ち並び伊勢屋、池田屋、観音寺や、さつま屋等が名を連ねた。 細長く続く道筋は、往時の面影を残し、せせらぎの音は訪れる
人の心を癒してくれる  (土佐街懐古館当主敬白より転記)


伊勢屋屋敷(重文) 県立民族博物館で保存
       金剛力酒造の醸造元


武家屋敷 土佐街道沿い 前方に 高取城
    高取藩は文久3年(1863)に 天誅組を 大砲で撃破 戦勝しました。

☆訪問撮影-2008.7.、13 天候:晴☆

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     所在地:アクセス
            奈良県高市郡高取町
            近鉄南大阪線「大阪阿倍野橋駅」乗車
              ―近鉄吉野線 「壺阪山駅」下車
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