関西文学散歩

ー 帝国キネマ ー

☆訪問取材撮影-2009.01.11 天候:晴☆

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所在地:アクセス
  大阪府布施市(現東大阪市
  近畿日本鉄道 小阪駅より 10分

昭和3年に帝国キネマ長瀬撮影所が開設された
 敷地面積約1万坪、かまぼこ型の200坪の
ステージ2棟のほかその他の設備も整っており、
当時東洋一の規模、東洋のハリウッドといわれた
 昭和5年キネマ旬報優秀映画第1位に輝いた
「何か彼女をそうさせたか」はトーキー初期の頃の作品です。

 現在(写真)は 樟徳館(国の登録文化財)
 
帝国キネマ小阪撮影所
  大正6年「天然色活動写真株式会社」が
小阪に撮影所を開所
 総面積570坪、建物44坪、
舞台20坪程度のもので、無声映画、時代劇が
主で「市川百々之助」「霧島直子」などの
人気スターが活躍しました。
大正12年(1923)度には60作品余製作された。
跡地は住宅地化され、当時の面影は
残っていません。

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●小阪撮影所〜長瀬撮影所時代・略年表
 大正6年(1917):「天然色活動写真株式会社」が小阪に撮影所を開所。
 大正8年(1919):「天然色活動写真株式会社」が東京巣鴨に撮影所を開所。
 大正8年(1919):「天然色活動写真株式会社」解散。
 大正9年(1920):「帝国キネマ演芸株式会社」設立。「帝キネ小阪撮影所」が稼動
                                        (1925年閉鎖)。
 大正12年(1923):「帝キネ芦屋撮影所」が開所。
                            1925年「アシヤ映画制作所」所有になる。
 大正14年(1925):「帝キネ巣鴨撮影所」が稼動。
 昭和3年(1928):「帝キネ長瀬撮影所」が開所。
 昭和5年(1930):「帝キネ長瀬撮影所」が失火により閉鎖。
 昭和5年(1930):「松竹(坂妻プロ)太秦撮影所」を借受け、
                                  「帝キネ太秦撮影所」が稼動。
 昭和6年(1931):「帝国キネマ演芸梶v解散。「新興キネマ」に改組され引継がれる。

参考文献   
   実録日本映画史   帝キネ伝   佐々木勘一郎著   近代文芸社  

山川吉太郎は(大正3年)5月に1914年〜1930年まで大阪ミナミ千日前にレジャーの殿堂。
大正時代の大阪を代表する娯楽センター「楽天地」を建設、一躍ハイカラな名所となる。
  ミナミの興行師:山川吉太郎と 北浜の相場師:松井伊助と組んで
「帝国キネマ演芸株式会社」を大阪市南区日吉橋に設立した。社長は山川吉太郎
  1923年芦屋市(兵庫県)の山手に 帝国キネマ撮影所を開設 後に 
アカシヤ映画制作所として独立

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