関西文学散歩 八尾
☆☆ー2008年 4月 13日(日) −天候 晴ー
関西文学散歩・第414回ご案内
〜 ハ尾の道鏡さん一奈良街道・下の太子から弓削へ 〜〜
黒岩重吾『弓削道鏡』・井沢元彦『逆説の日本史
 

本日のコース
→ (集合)10:00  JR新加美駅 〜 寺内町ふれあい館 と 鑑賞時(昼食タイム)
〜 大聖勝軍寺 〜 渋川神社  〜  竜華寺跡 〜 由義神社 〜 
〜 弓削神社 〜 JR志紀駅 解散

 

新加美駅から 久宝寺寺内町まで

 
         

         (集合場所 新加美駅)    (久宝寺公園を歩く)      ( 緑地で 第1回講義)


  本日の コース ポイント  久宝寺寺内町について  大聖勝軍寺の聖徳太子と
物部守屋の墓 & 主ポイント 弓削道鏡と 孝謙上皇の 関係:河内:由義の地が
  副都(西の京)として 繁栄した地を 巡りますと 概要説明が ありました。
 
久宝寺寺内町 と 顕証寺 (西本願寺派 )
     
     (顕証寺 本堂)         (同寺での 本日の講義)    (寺内町 を 散策)(安井道頓生誕地:碑)
 

顕証寺を中心にした寺内町は、東西に2ケ所ずつ、南北に1ケ所ずつの計6ケ所、それ ぞれに木戸門を
備えた出入口によって城郭のように厳重に防備され、町中は碁盤目状の整 然とした街路が整備され
ていました 。大阪道頓堀を 開削した 安井道頓は 当地に碑があります。

 

大聖勝軍寺 と ( 敗者 )物部守屋の墓

        
    (大聖勝軍寺)         ( 同寺 御朱印)      (古戦場の 碑)    (物部守屋の墓)

 

「下のお太子さん」と親しく愛称される大聖勝軍寺は、真言 宗のお寺です。「下の太子」というのは、叡福寺 ( 太子町 ) の
「上の太子」、野中寺 ( 羽曳野市 ) の「中の太子」に対して呼ばれる通称ですが、
    この地はもともと、物部守屋の別宅があっ たところとも伝えられています。
587 年、用明天皇が亡くなり、物部守屋と蘇我馬子が対立。 守屋は、河内国渋川郡の守屋の本拠地 ( ハ尾市渋川 ) ヘ
結局、同年7月、征討軍は守備を固める守屋を攻め、この地はその戦いの主戦場 になったといわれています。
  征討軍に属していた厩戸皇子 ( 後に聖徳太子 ) は、物部守屋の攻勢に難儀し、信貴山の毘 沙門天に祈願して
四天王様を刻み、その加護によって守屋を討ちました。戦いの後、難波 の高台に四天王寺を建立し
、激戦となった渋川にも勝軍寺を創建しました。
門前の小さな池は「守屋池」と呼ばれ、 俗に「守屋首洗池」と言 われます。
   なお、付近には「物部守屋の墓があります。
又 平成の歌姫 天童よしみ の 豪邸も 同寺の 斜め前で 本日の参加者の 注目を集めていました。

 

弓削道鏡 と 孝謙上皇 と 由義の宮( 西の京 )
        
       (由 義 神 社)      (由義宮の碑)    (弓 削 神 社)     (本日最後の講義)
【由義神社 ゆげじんじや】
   
 

ハ尾市八尾本の一画に由義神社はあります。「由義」と書いて「ゆげ」と読ませる当社は、称徳天皇の
由義宮址 といわれ 、古くは周囲に堀を巡ら し 深叢の森に囲まれた大規模な神社だったそうです。
  中世の度重なる兵火で社殿も森も 焼失し、  『銃口本紀』天平神護元年( 765 ) 10 月2目の条に、
称徳天皇は弓削道鏡に太政大臣禅師の 位を授け、銃いて文武百官に詔して太政大臣を礼拝させたとする記事があります。また、 神護景雲3年( 769 ) 10 月 17 日には、天皇が道鏡とともに由義官に行幸して同 21日 に龍華 寺に真綿を施入、
同 30日 には天皇が詔して由義官を「西京」とし、河内国を「河内職」と したという記事があります。
  このように、「由義官」は称徳天皇・弓削道鏡の時代に奈良・平城京に対して「西の京」 として造営されました。
当時は、若江郡南部(現、ハ尾木・東弓削)を中心に繁栄したと思 われますが、道鏡の失脚とともに歴史に埋もれて しまい、大和川付替えによってか、その 遺構は発見されていません

 

【 弓削神社 ゆげじんじや】
                  八尾市内には、 JR 大和路線を挟んで約 300m を隔て、弓削神社を名乗る社が2社
                ( 東弓削と弓削町 ) あります。  
                   本日参拝するのは南側の弓削町に鎮座する弓削神社です。
                   当社は弓削氏の氏神であったと思われますが、弓削氏は河内国若江郡弓削郷を本拠と
                する豪族で、武器 ( 主に弓 ) を製造する一族でした。物部尾興は弓削連の娘阿佐姫と結婚し
                 物部守屋を生んだと言われ、 このため、守屋は物部弓削守屋大連と複数姓をとったりも 
                しています。   物部氏の本貫地とされる渋川周辺とは隣り合わせであり、物部氏は当地も
                本
貫地の一つとしたようです。


【 弓 削 道 鏡  ゆげどうきょう】    
 

道鏡 (どうきょう、 文武天皇 4年( 700年 )? - 宝亀 3年 4月7日 772年 5月13日 ))
     奈良時代 法相宗 の僧。   物部氏 の一族の 弓削氏 の出 

弓削村で生まれた道鏡は義淵僧正、良弁和尚の許で仏道を習 得しますが、唐から戻った玄防と出会い、
玄防から「修行ばか りしておらず、時には女人と購合う必要もある。購合は因くな り過ぎている精神をほぐす、
これだけは覚えておけ、女人と購 合ったからといって念力が落ちるようでは、まだまだ修行が足 りぬ」と言われました。
  天平宝字4年 (760) 、 50 歳の道鏡は、良弁天僧都の推薦で看病禅師として内道場 ( 官城内の道場 ) に入り
淳仁天皇(淡路廃帝)に皇位を譲って上皇となっていた孝謙天皇の看病をすることになります。
上皇はこの時 42 歳前後。藤原仲麻呂に権力を欲しいままにされ、僻屈していた上皇は「法師、朕は法師と同じく
仏門の世界に入ったのじゃ。同じ世界の者同士なら、結ばれてもおかしくない、いや、自然ではないか」と道鏡の
情を誘います。
  以来、道鏡と上皇は深く結び、藤原仲麻呂と淳仁天皇の排斥を目論んで成功、 仲麻呂を謀反 の罪で破滅させ、淳仁天皇も淡路へ流罪としました。
  自ら重祚して称徳天皇とな ってますます道鏡を信頼し、道鏡は法王の位について仏教界の王者となり。
天皇は さらに自分と道鏡が並んで廟堂に立つことを望み、宇佐八幡の神託「道鏡を天位に即かし めば天下太平ならん」 を百官に告げました。しかし、貴族たちは太反対。 
   道鏡の勧めも あり、もう一度神託を確かめるために和気清麻呂を 使者に立てました。
  結果、新たな神託は「天つ日嗣は必ず皇儲を立てよ(天皇の位は必ず皇族でなければなら ない)」
であり、これを偽の神託とする称徳・道鏡にによって、清麻呂は穢麻呂と改名させ られ九州に流罪となります。
  しかし再び一転。称徳天皇が道鏡の看病もむなしく崩御する と、
道鏡は後ろ盾を失って権力を剥奪され、下野国造薬師寺別当として左遷され、その地 で 72 歳の生涯を終える
  作品は、作者(黒岩重吾)自身が本書「あとがき」で述べているように、大半はフィクションです が、
阿倍内親王 (孝謙天皇の皇女時代の名)が元気で可愛い娘と設定し、女性の視点でこの 時代を描いた作家永井路子とは 孝謙・称徳天皇の扱い方に解釈の違いがあるようで、両 著を読み比べてみるのもいいでしょう。
 また、里中満智子がコミック『女帝の手記』で、 孝謙・称徳天皇を描いており、これも参考になるかもしれません
称徳天皇の死をもって 天武天皇系の皇統が断絶して天智天皇系の皇統が復活した事から、天智天皇系の皇位継承を 正当化するために天皇と道鏡を不当に貶めているのではという指摘もある。
   宝亀元年(770)に称徳天皇が病死(一部毒殺説あり)すると、道鏡は 下野国薬師寺 別当 に左遷され、
ここで没した。宝亀3年4月7日(772年5月13日)、都に道鏡死去の報が届いた。  
   龍興寺(栃木県下野市)境内に道鏡の墓と伝えられる塚がある。

               ☆訪問撮影-2008.4.13 天候:快晴☆
 

 

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