冷戦の遺跡
- 「ベルリンの壁」 -
(所在地) 〒543-0063
大阪市天王寺区茶臼山1-31
統 国 寺
TEL:06-6771-5600/FAX:06-6771-1236
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壁の厚み
← 壁 (ドイツ民主共和国ー東独逸側より)
↑ 壁(ドイツ連邦共和国ー西独逸側より)
1990年の独逸再統一 まで 存在した ベルリンの壁は 在日コリアのお寺(統国寺)に、
1998年に信徒が祖国の統一を願い喜捨したもので、高さ3.6メートルのブロック2基が
境内に置かれています。
ベルリンの壁
1961年8月13日午前0時、東ドイツは、東西ベルリン間68の道すべてを閉鎖し、有刺鉄線による最初の「壁」の建設を開始した。朝6時までに東西間の通行はほとんど不可能になり、有刺鉄線による壁は13時までにほぼ建設が完了した。
2日後には石造りの壁の建設が開始された。
1990年の独逸再統一まで 存在した
統 国 寺の 由緒 (統国寺の資料の引用転載)
統国寺の由緒は、聖徳太子の創建になる名刹で、百済の僧観勒(かんろく・・・・602年に来日し、
暦法・天文学・地理学・方術などを伝来し、飛鳥寺にも住し僧正に任ぜられている)が開山住持として
招かれ、推古天皇の帰依により厚遇を賜った。寺伝(『邦福寺梵鐘銘文』)には帝が専修念仏して、
西山に阿弥陀、観音、勢至の尊姿を感得したのにちなんで、別念仏寺とも称されたとある。
創始期は珍しい法相宗(唐の慈恩大師が識・・シキ・・以外のものは存在しないと説いた仏教の一宗。
天興寺の道昭が入唐して三蔵法師からこの宗を伝えられ、持ち帰ったといわれる)を伝えていた。
また『日本霊異記』には当寺に住していた百済の僧義覚と僧慧義は般若心経を念誦して不思議な霊験を
得たと伝えている。
元和元年(1615年)の大阪夏の陣では、徳川方に加勢した為か真田幸村軍によって、
全山消失の憂き目にあったとされる。だが、これより74年後の1689年に当時の高僧であった
法源和尚(伝承によれば父は後水尾天皇、母は後の東福門院となった徳川和子であるという。
黄檗宗の僧で独湛和尚の弟子となった)により再興せられた。現在大雄宝殿に奉安されている本尊は、
法源和尚の篤信家であった金(西山)氏の喜捨になる釈迦三尊〔『古念仏百済寺喜捨文』(元禄10年)〕である。
さらに、これより20年経た宝永6年(1709年)に、黄檗四代独湛(どくたん)和尚を招請して
中興開山とし、黄檗宗(おうばくしゅう)に属して寺名を邦福寺(ほうふくじ)と改め、
また近くの和気清麻呂が開いた和気堀にちなんで和気山の山号をつけたとされる。
その当時の正式名は和気山邦福寺である。現在本堂内陣の四柱に掛納されている
独湛和尚直筆の大扁額には、「梵刹構成帝網交参真殊勝、法幢高竪雅燈纏焔永輝煌、
和気薫蒸流出一源直接曹溪正脈、浪花掲播来朝百済各同念仏度人」とあり、
本寺の歴史的な法燈の位置付けを的確に現している。
邦福寺時代は黄檗宗の別格寺院に相当し、厳しい修行に挑む大勢の雲水(修行僧)が修行していた。
そのため雲水寺と呼ばれ、当寺の界隈は活気に満ちていたはずである。『摂陽群談』によれば、
境内に温泉が湧出したので湯屋寺とも呼ばれとある。また「遊息亭」で普茶料理が出されていたことが、
名残として坂口楼の普茶料理として現在も残っているのである。
当寺は古くより文化人の愛する名勝で、多くの著名人が文化社交の交際場として来訪しており、
斉藤茂吉のアララギの大阪歌会もここで頻繁に催されていた。斉藤茂吉、杉浦明平、高安やす子なども
往来していたという。墓地に広瀬旭荘(漢詩人)、藤井藍田(漢詩人)、間長涯(天文学者)、
河竹能進(狂言作家)、中村歌六(歌舞伎)など江戸時代の文化人のものがあり、
茶道煎茶で有名な田中花月庵が奉祀した急須塚も祭祀されている。
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統国寺境内地は、大阪市天王寺区茶臼山の史蹟南部に隣接し、天王寺公園に接して自然樹林の
林立する聖域である。この地が難波の百済寺(難波百済大別王寺)であると比定されている説もみられ、
朝鮮の由来を継承する相応しい雰囲気の立地で、北面する舞台造り朱欄干から茶臼山池(河底池)
を望む景色は、四季を通して美しい絶景で、大阪の名勝としてよく知られている。
本 堂
境内庭園舞台より 茶臼山を 望む