平 田 の 渡 し

へ い た

  淀川と史跡をしのぶ為、
 石は大和の 十津川産の
 自然石に
 人選作文字をきざみ
標柱としました。    

  延宝4年(1676)頃に、沢田左平太(義浄)によって開かれた渡しで、元禄時代
(1688〜1704)の『摂陽群談』には「西成郡平田村より河内国茨田郡十番村
(現在の守口市八雲中町付近)の堤へ渡って街道へ出る。
  ここは大坂の津より山城国伏見ヘ登る川船を改めるところである。
世に平田番所の渡しといわれる」と記され、江戸末期の安政3年(1856)発刊の
『淀川両岸一覧』には「平太渡ロ」とあり、「平田」「平太」が使われています。

  大iE 1 4年の市域拡張で大阪市営となったが請負制度により行なわれ
大正8年に 道路法が施行され平太渡しは、東淀川区豊里町と旭区豊里町を結ぶ
東淀川区(386号)というレッキとした認定道路となった。
 明治40年頃大人2銭小人1銭也の「渡し銭」は、大正8年から無料、当時は船頭
が竿と櫓で上流へ漕ぎ上がり距離と流れを見計らって うまく対岸へつけたという。

 その後辺鄙の市街化で利用者が激増片道20分ちかかる20人乗りの手漕船では
ラッシュウの時は積み残し、風雨の時は欠航と なった。
  そこで昭和35年10月には2 1人乗りの発動機船、38年1 2月には36人乗りの
新造船を就航させ 1日に 3000人の乗客と670台の自転車を運んだ。
 昭和45年3月3日豊里大橋開通と共に淀川に残る唯一つ渡船場平太渡しはその姿を消したo  

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☆訪問撮影-2007.12.09 天候:晴☆