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     戦国大名 の 栄華 と 悲劇   

      ー2005年 9月 14日(水)−天候 曇り のち 雨ー



昭和56年開館  発掘資料や朝倉館の 復元模型の展示
遺跡散策の 事前学習に役立つ資料館です

一乗谷の鳥瞰模型図

復元町並み

町並み入口      上級 武士 の 館    メイン 復元通路

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瓜割清水うりわりしょうず

〜この清水は、1年中 約10度の
冷たい水が絶える湧き出ています。
 朝倉氏の御膳水に用いられた
底には笏谷石製の板石が敷き詰
められています。

南陽寺庭園

朝倉家 菩提寺 庭園跡

朝倉館跡

 館跡の入り口には、豊臣秀吉が
朝倉義影の菩提を弔うため寄進した
「唐門」が建っています。
館は80メートル四方の敷地に
17棟の建物が建っていたそうです。

湯殿庭園

4つある朝倉氏遺跡庭園の
中で最古のものと推察されています

 戦国時代の気風を標わせる荒々しく
勇壮な石組が魅力の湯殿跡庭園。

「もろともに月も忘るな糸桜  年の緒長き契と思はゞ」 義秋
「君が代の時にあひあふ糸桜 いともかしこき けふのことの葉」 義景

石    碑

諏訪館庭園

 側室諏訪少将が住む
庭園は一乗谷最大の
規模を持つ
 3米以上の 巨石を
中心の石庭は見事
 銀閣寺を模す

写真TSUCHIYAさん提供

朝倉家の興亡

 朝倉氏の祖先は、平安時代より 現在の兵庫県・養父郡一体を本拠地としてい た豪族。
 室町時代には足利一族の有力武将・足利(斯波)高経のもとで功績をたて越前黒丸城(現 在の福井市西部の九頭竜川河口左岸)に居を移し、
朝倉広景以後6代135年にわ たって坂井郡一円を支配しました。
 七代目の朝倉孝景は、1467年の応仁の乱で大活躍。守護斯波氏や
守護代甲斐氏を追放、、守護代職に就くと同時により軍事環境に適した一乗谷に本拠を移しました。
 文明3年(1471年)以後孝景→氏景→貞景→孝景→義景と五代103年に わたって越前を支配。京の文化を積極的にとり入れ北陸の小京都とも呼ぶべき城 下町を築きながら、みやびやかな文化の華を咲かせました。 しかしその繁栄も五代・義景が「刀祢(とね)の戦い」(天正元年八月)に信長に破れ 一乗谷を捨てて  従兄弟の朝倉景鏡の居城が大野にあったこともあり、景鏡や近臣の勧めで大野に逃れ、再起を期すこととなった
 十九日になると、景鏡は、防御の都合で居城亥山城近くの六坊賢松寺に移るように勧め、義景一行はこれに従い、賢松寺へと移った。
 そしてて翌二十日、景鏡は早朝から六坊賢松寺の義景を囲んだ。もはや命運尽きたことを悟った義景は
 、「七転八倒 四十年中 無他無目 四大本空」
の辞世の句を残して自刃した。最後まで義景に付き添って介錯した近臣も自刃、もう一人の近臣鳥居景近は、一旦は景鏡勢の中へ斬り込んだものの引き返して、これも後を追って自刃したとされる

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福井縣福井市 一 乗谷 朝倉氏遺跡