上方散策 「天空の城」 

☆☆ー平成19年 4月11日(水) −天候 晴れー☆☆

- 「天空の城」竹田城 と 城下町-

→ (出 発)8:30 〜 但馬のまほろば(道の駅)〜 竹田城  〜 城下町
   〜 法樹寺:勝賢寺:表米神社  〜 播磨屋生野総本店 〜 (帰 路 18:30着)

古代あさご館

【竹田城跡】
  但馬竹田城はJR福知山線竹田駅の真上の
山上に塁々とした石垣がのぞめる。
352m虎杖山に築かれた山城である。

 築城は出石有子山城を本拠とする守護山名
氏の宿老太田垣氏が15世紀中頃、今
日残る
石垣は、太田垣の後、天正13年(1585)羽柴
秀吉が但馬守護に任じた赤松
広秀が構築。
広秀は龍野鶏龍山城より移り、竹田城を本格的
な石垣造りの山城にし
たという。

 古城山の標高は353m、駅舎あたりは250m
標高差は100米少々ではあるが

城跡までの登りの遺は険しい。往時の要害ぶり
がわかる。今は建物をすべて失って
 山上には
石垣が残るのみ。戦国期を代表する典型的な
山城の遺構だ。 いつ、誰に
って築かれたのか
史料的には明らかではない。
但馬の守護山名氏の支城であった
ことには間
違いないようだ。
 地元の伝えでは、山名宗仝が13年の歳月と
延べ30万人を動員し、嘉吉3
年(1443)に完成
といわれている。築城の目的は、播磨の赤松
氏、丹
波の細川氏らの侵攻に備えることにあっ
たとされる古城山山頂は予想外に広く、
大手門
城櫓天守台 北千畳 南千畳などの石組みが
整然と残され、そのたた
ずまいはまさに臥した虎
そのもので城名の由来となる。


 竹田城の初代城主になったのは山名氏の重
臣太田垣光景、以後太田垣氏が城主の
座を継
いできており領内の生野銀山開発などにつとめ
、それによる経済力の充実
もあって太田垣氏
は主家山名氏を凌ぐ勢力を持つに至る。
 天正5年(1577
信長の命を受けた羽柴秀吉
が中国攻めの軍を起こし、播磨から但馬に侵入
すると
 竹田城は戦わずして落城してしまう。
秀吉は竹田城をおさめたのち、さらに転戦す
る。
この時、城代として竹田城を預けられたのは弟
の秀長 竹田城を接収した後
秀吉は改修工事
をおこなわせているがそれがどの程度のものか
についてははっき
りしていない。しかし、秀吉の
手に入った後の竹田城は山城として国内有数と
いう
広壮な規模を持つものであったと想像でき
そうだ。

  秀長が去って、代わりに家臣-桑山重晴が
入城し、ついで赤松広秀が新城主に任
じられる
  その広秀が開か原の合戦で、
西軍に属したため家康の怒りを買い、鳥取
にお
いて白刃。それに伴い竹田城は廃城となる

  城跡は最長部に営まれた天守台を中心北に
北干畳、南に南千畳と呼ばれる曲
輪が鳥が翼
を広げたような形で尾根に沿っ
て長く張り出していた。天守建築があっ
たかどう
かは不明。天守台石垣は山頂に豪壮な石組み
が残っているが、それぞれの
曲輪はことごとく
石垣や土塁に守られていた。石垣の延長は南
北方向だけでおよそ
400米。大手門から本丸に
至る縄張りは複雑で迷路のようだ。

 石垣の構築技法から天正13年(1585)に城主
となった赤松広秀以降であるとい
われている。
 石垣は粗割り石や自然石を横位に積み、
間詰めを丁寧に詰めるという

 文様・慶長頃(15921615)にみられる典型
例。天守台の角部は算木積みで、
わず
かに反りが認められる。

【城下町散策】
   竹田城城下町は、竹田駅のからつづく旧街道に沿い、古城山と丸山川に挟まれた細長い地域に広がる
城下町は旧播但街道の宿場町でもあった。その面影を駅付近
の宿場町通り、   本日散策する寺町通り
 (かっては武家屋敷があった)にとどめてい
る。敷百米にわたって昔ながらの家並みや寺が残っている。

堀には 錦鯉が 泳ぐ

法樹寺


 最後の城主
  赤松広秀の屋敷に
建つ寺、広秀の菩提寺
、竹田城を借景
 
       とした庭園。

〒669−5153 朝来市山東町大月91番地の2
          〔道の駅但馬のまほろば)内〕
TEL:079−670−7330 FAX:079−670−7333

展 示 場

但 馬 王

道の駅「まほろば」の
まほろば定食600円

「まほろば」とは、「素晴らしい」
「住みやすい場所」という意味の古語。