【メモ】2008-11-23
大石内蔵助ー腰掛石 上方散策
大石内蔵助ー腰掛石 高梁市:備中松山城の登城山道の中間に 

写真08:11:23現地撮影★天候晴


備中松山城登山道の途中に、大石内蔵助の腰掛け石がある。
高梁の基礎をつくった水谷三代”の三代目、勝美が元禄六年(一六九三)三十一歳の著さで急死、
継子も十三歳で亡くなったため、幕府は水谷家を断絶、所領没収という報われない結果となった。
幕府の命で城受け取りの役は、赤穂藩主、浅野長矩に命じられた。
赤穂藩は大石を先鋒、長矩を総大将に多くの軍勢で松山城下に乗り込む。
水谷の城方は家老、鶴見内蔵助以下約千名が城内にあり、殺気立った雰囲気。
強引に城に入ろうとすれば武力衝突の恐れもあったそこで大石は平服、供の者も連れず鶴見内蔵助と面会、
平和的に城を明け渡すよう説得を続け、二人の内蔵助の息も詰まるような話し合いの末、
開城に応じることになったという。
備中松山城の登城の途中には大石が休んだといわれる腰掛石が残っている。